民主主義の国には集団演技を行なう運動会はない

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世界の運動会を調べて気がついたことがあります。欧米には日本的な運動会がないことでした。

スポーツを楽しむイベントはあります。でも生徒が集団で同じ動作(踊り・体操)を行ったり、集団で競う競技はほとんどなかったんですね。

なぜ欧米には運動会がないのでしょうか?

不思議に思ったので調べてみました。すると、

生徒の自主性を大切にしているから

だとわかりました。

個人の自由を尊重する欧米では生徒に集団で強制させることはしないのですね。もちろん運動をするのはいいことです。だから運動の楽しさを教えるイベントはあります。

どうやら日本と欧米では学校行事に対する考え方が全く違うようですね。

なぜこんなに考え方が違うのでしょうか?

どうやら欧米と日本では個人の自主性自由への考え方がかなり違うようです。

しかも調べていくうちに欧米人の考える「自由」は民主主義にも繋がる大切な考え方だとわかりました。

そして、民主主義を大切にする国では運動会は存在しない

正確には、

スポーツを楽しむ行事はあるが、集団行動を強制する行事はない。

ことに気づいてしまったのです。運動会について調べていたのに意外なところに行き着いてしまいました。

というわけで、今からなぜそうなのかその理由を紹介します。ちょっと長いですがお付き合いください。

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欧米で運動会がないのは自主性を尊重するから

民主主義の国で大切にされる個人の自主性

まずは自由とは何なのかについて考えてみましょう。

欧米の教育の基本的な考えは個人の自主性と自由ですよね。

未成年とはいえ生徒は人権をもった人間です。教育者といえども生徒に強制したり束縛はしていけません。生徒が自ら考え自分で決定することを大切にします。

生徒の意思に関係なく強制的に生徒全員に同じことをやらせるのは生徒から自由を奪う行為です。基本的人権の侵害になってしまうのです。

ですから個人から自由を奪い集団行動を強制させるのは民主主義に反する考えと彼らは考えるのですね。

それは競技でもダンスでも同じなんですね。「順位を付けないからいい」「優劣がつかないからいい」という問題ではないんです。それでは問題の誤魔化しになってしまいますね。

では欧米人はなぜ個人の自由を大切にするのでしょうか?

それは個人の自由が民主主義の基本になっているからなんですね。

欧米人の考える自由は日本人の考える自由とは違う

自由を英語に訳すと何でしょうか?

freedom(フリーダム)?

半分正しく、半分違います。

確かにfreedomも自由と訳します。でも基本的人権の自由はfreedomではありません。

liberty(リバティ)なのです。

自由の女神像の自由はLiberty

アメリカのニューヨークにある”自由の女神像”を知ってる人は多いと思います。アメリカの自由と民主主義の象徴ですね。アメリカ独立記念日の100周年にフランスからアメリカに贈られました。

自由の女神像は英語では”Statue of Liberty”といいますよね。

決して”Statue of Freedom”ではありません。

Liberty が自由と平等の自由だったんですね。

自由の本当の意味は自主独立

ではこのリバティってどういう意味でしょうか?

それは自主独立。束縛されない自由。といった意味があります。

身分や他人によって束縛されないこと。
他人に強制されずに自分で決められること。

freedomが「束縛されない」という消極的な意味が強いのに対して

libertyは「強制されずに自分で決められる」という積極的な意味合いが強いです。

強制されないこと。個人の意思が尊重されること。

それがリバティ。
それが民主主義の自由なんですね。

日本の自由は中国式、Libertyとは違う

でも日本では自由には「勝手気まま」なイメージがありますよね。

「自由」という熟語が中国で生まれたときは「わがまま、勝手気まま」な意味でした。

ところが明治時代の知識人が「liberty」の日本語訳として「自由」を使ったのです。

そこで「自由」には「気まま」と「束縛されない自主独立」という両方の意味があることになってしまったのですね。

漢字文化圏の中国や韓国でも「自由」といえば「気まま」の意味です。日本語訳の影響で「自主独立」の意味も知られるようにはなっているようですが。理解している人はあまりいないでしょうね。

日本人でもLiberty=束縛されない自主独立が自由だと知ってる人は少ないと思います。

というわけで、自由と平等というと「勝手気ままにしていい、でもみんな一緒の恩恵がある」と勘違いしている人がいます。そんな都合のいい話がある訳ありませんよね。

中国人や韓国人なら「自由=わがまま」かもしれません。

でも現代の日本では「自由=自主独立・自分で決められる」になってるはずなのです。

痛い翻訳ミス

幕末から明治の知識人は下手な翻訳をしたものですね。おかげで日本人のLibertyや民主主義への理解は深まりませんでした。それどころか民主主義とは「個人が勝手気ままにしていい」と間違った考えを広めてしまいました。困ったものです。

福沢諭吉も自由を自主独立の意味として広めようとしていたようです。でも今の日本社会を見てみると広まっているようには思えません。政治家や知識人でも自由の意味を知ってるかどうか怪しいものです。いや本当の意味を知らずに使っている人は多いでしょう。

でも今さらLibertyの訳を変えるわけにはいきませんよね。自由と平等の本当の意味を広めるしかありません。

自由と自立はセットになっている

ところで。Liberty は他人から束縛されませんが自立しなければいけません。自分の意思で決定するのです。

勝手気ままにして人に決めてもらったり頼るのはLibertyとはいいません。

自由と平等を求めるなら「自立して自分で決める」のも必要になります。もちろんアドバイスを求めるのは勝手ですが決定は自分でするのです。

日本の民主主義にかけているもの、それは「自立」なんですね。

誰にも強制されないかわりに自分で考えて自分で決める。

自分で選択して自分で決めるための自由なんです。

と、長々と自由について書いてきました。でもこれが重要なんです。

個人の自由が尊重される国では運動会はない

ここまで考えると。

欧米で運動会がない理由がわかってきました。

個人の主体性を尊重しているから強制はしないのです。

スポーツや体を動かすことの楽しさを学ばせるイベントは行います。でも集団行動は強制しません。

もちろん欧米式の民主主義が正しいかどうかはわかりません。

日本の教育にもいいところはたくさんありますよね。

自主性が強すぎるとわがままになります。協調性がなければ社会は成り立ちません。
だから民主主義の理想は「自由・平等(機会・権利の平等)・友愛(社会奉仕)」とされています。

自由だけではありません。自主性と協調のバランスをとるのが欧米式の民主主義です。そして自由と平等を得た者は社会への奉仕をするのが当たり前。それが民主主義です。少なくとも理想はそうなってるんですね。

そういった民主主義の国では集団行動を強制される運動会はありません。

もちろん運動会があるのは日本だけではありません。中国、韓国、台湾には日本のような運動会はあります。でも全体競技はないようですね(台湾には集団でパフォーマンスをする種目があるようですが)。

関連記事:運動会があるのは日本だけ?世界の運動会事情

欧米よりも東アジアは運動会が好き。とくに日本は集団行動が好き。ということになりますね。

個人の尊重と自由について欧米とアジア、日本では違うのでしょう。

日本の運動会は集団行動を強制される

日本の運動会は集団競技が多いですよね。

そういう国民性なのかもしれません。確かに競技種目は盛り上がります。勝ち負けを競うのは運動会の楽しみのひとつです。

僕自身はクラス最低の運動音痴でした。「面倒だな」とは思いましたが、だからといって運動会が嫌いだったわけではありません。

問題なのは差がつくことではありません。人と人の違いを理由に差別やイジメが生まれること、それを認める学校や教育に問題があるのですね。

そのせいでしょうか?最近は競争をなくしてダンスや組体操など集団で行なう種目が増えています。でも。

集団で同じ動作を強制しているのはほぼ日本だけなんです。

ダンスといえば聞こえはいいかもしれません。でもやってることはマスゲーム(集団演技)と同じですよね。

マスゲームといえば北朝鮮の得意な行事です。

なぜ日本の学校の生徒が北朝鮮と同じことをしているのでしょうか?
日本の学校は北朝鮮化しているのでしょうか?
教育関係者は今でも北朝鮮が地上の楽園だと思っているのでしょうか?

不思議です。

もうおわかりですよね。
日本の運動会の問題点は勝敗がつくことではありません。

大人(指導者)の意思で集団行動を強制されることが問題なのです。運動会から順位や勝敗をなくすのは問題点のすり替えです。

しかも集団行動のために準備と練習に時間をかけ過ぎですよね。学業を疎かにして集団行動の練習に時間を費やす意味があるのでしょうか?

それを考えると結局日本は戦前から何も変わっていないことに気が付きました。

軍国主義や共産主義の国では国民は自分で考える必要はないでしょう。ゆとり教育は国民を凡人(最低限の公的教育)とエリート(勉強したい人は自費でさらに勉強する)に分ける計画でした。今、考えない大人が増えています。社会にとってゆとり教育は悪害でしかありませんが、導入を考えた人にとっては大成功だったのです。

今、現代日本のなかで戦前・戦時中に一番近いのは学校教育の世界。

教育者は戦前・戦中の全体主義(国民は皆んな同じことをしなければいけないという社会)を批判します。ところが彼らと同じことをしているのが学校教育者なんです。

というのも社会主義・共産主義・コミュニズムは全体主義そのものだからです。

今問題になってるブラック校則ができるのも教育関者が戦前戦中の軍国主義者と同じ全体主義者だからです。

派閥が違うから批判しているだけ。結局は同じことをやっている。
なんとも皮肉ですね。

確かに上に立つ者にとって思い通りに動く人間は都合がいいです。従順な人間が集団行動できるならなおさら好都合です。

学校は大人にとって都合のいい子供をつくる場所になってしまってます。

これは個人の自主性を尊重する民主主義に反していますよね。
だから日本では自分で決められない人間が育ってしまうのだと思います。

よりよい運動会とは

ここまで日本の運動会とその背景にある日本の問題点を書いてきました。でも確かに現代日本人は運動不足なので学校で体力つくりは必要でしょう。

運動に関係したイベントを行いたいのならやり方はいろいろあると思います。

古いやりかたにこだわる必要はないと思います。なにしろ運動会の歴史はせいぜい明治時代からです。伝統行事とは重みが違いますよね。なくしたところで何も問題はありません。

しかも日本の学校の運動会はマスゲームの割合が増えました。北朝鮮のようになってしまってます。どうしてこうなったのでしょうか?

運動会をどうするかは日本が本当の民主主義の国になれるかの分かれ目がかもしれません。

 

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