昭和産まれビックリ!日本史教科書が変わった本当の理由

読書
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最近「日本史の教科書が変わっている」とよく聞きます。

昭和の歴史教科書と現代の歴史教科書では内容が違うようです。

たしかに最近は歴史の新発見や新常識がテレビで紹介されています。歴史には昔からいろいろな説があるのは知ってました。でも教科書まで変わっているとは!

それならどこがどのように変わってるのか気になりました。

そこでこの本を読んでみました。

 

 

読んでみると・・・確かに、新発見があったり。過去の説が間違ってた。と気付かされる部分はあります。

でも・・・これって新発見といえるの?と疑問に思うものも多いです。

教科書の変更点は大きく分けると二種類にわかれることに気が付きました。

そのふたつとは。

(1)新発見があった、過去の説の間違いがわかった。

(2)学者の解釈がかわった。

です。

 

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歴史の新発見・過去の説の間違い

従来の説が覆る代表的な例は発掘品や新しい資料が発見されて従来の説がかわることですよね。

どんな新発見があったのでしょうか。

新発見で歴史の常識が変わった例

日本一古い貨幣は和同開珎ではなく富本銭

体表的なのは「富本銭」の発見。

それまでは「和同開珎」が日本最古の貨幣といわれていました。でも新しく発掘された富本銭の方が古いことがわかりました。そこで日本最古の貨幣は「富本銭」になったんですね。

 

古い説が間違っていたと考えられる例

織田軍の鉄砲隊三段撃ちはなかった

長篠合戦で織田・徳川軍と武田軍が戦いました。このとき織田軍は鉄砲隊を三列に並べて順番に撃つ三段撃ちで戦ったといわれていました。

確かに織田信長が大量の鉄砲を使ったのは確かでしょう。でも戦場で3千(千という説もあります)もいる鉄砲隊を三列に並べて順番に撃つのは不可能。だといわれます。

軍記物(戦いの様子を書いた読み物。誇張や創作が多い)や江戸時代の小説を歴史家が信じてしまったのが間違いの原因のようです。

でも形はどうあれ、信長が鉄砲を有効活用したのは事実でしょう。

これらは新発見や新常識と言えるでしょう。

 

歴史の解釈が変わった例

研究者の考え方や価値観も時代とともに変わります。そこで歴史の解釈が変わったものがあります。

定義を変えてしまった例

鎌倉幕府の設立はイイクニ(1192)ではなくイイハコ(1185)

歴史の解釈が変わった有名な例が鎌倉幕府の始まりの年。昭和の教科書では1192年が鎌倉幕府が設立された年と書かれていました。イイクニ作ろう鎌倉幕府で覚えましたね。

でも、現在はテレビや雑学本では1185年が鎌倉が幕府が始まった年だと紹介されることがあります。

でも教科書にはっきりと1185年が鎌倉幕府が始まった年と書いてあるわけではありません。

1185年は源頼朝が持っている土地への守護地頭の任命権が与えられた年。
1192年は源頼朝が征夷大将軍に任命された年。

つまり。

1185年は本格的な武家政権が始まった年。
1192年は名実ともに鎌倉幕府が始まった年。

なのです。

1185年と1192年の両方が書かれています。

でも試験に出すとき不便です。実質的に始まったと思われる1185年を正解にしよう。というだけの話です。

 

鎌倉幕府の始まりは決められない

実際には源頼朝は「今から鎌倉幕府を始める」と宣言したことはありません。頼朝は自分の組織を鎌倉幕府と呼んだこともありせん。後の時代の人が勝手に「鎌倉幕府」と呼んでるだけです。当時は「関東」「鎌倉殿」「武家」と呼ばれていたようです。

だから「鎌倉幕府」の始まった年自体が存在しないんですね。

でもそれだと不便なので源頼朝が始めた政治のしくみを鎌倉幕府と呼んでるだけです。

でも「幕府」と呼べるのは「征夷大将軍」のいる場所です。だから豊臣秀吉は全国を支配しましたが「豊臣幕府」とは呼びません。

征夷大将軍の名前にこだわらないなら、江戸幕府の設立を徳川家康が事実上の全国支配を始めた関ヶ原の戦いの後。と変えることだって出来ます。静岡大学名誉教授の小和田哲男氏は今後の研究次第といいながらも江戸幕府の開始年の変更の可能性についても指摘しています。

今後は鎌倉幕府だけでなく徳川幕府や室町幕府の設立や滅亡した年や日も変わる可能性がありますね。

でもそれって。

研究者の考え次第でどうにでも決められる。ということなんです。

もともと定義の決まっていないものだから、いくらでも解釈を変えられる。

つまり、学者の気持ち次第でいくらでも新発見を作ることができる。ということなのです。

新発見が捏造な場合があるわけです。

 

歴史の世界は二枚舌

ダブルスタンダードという言葉があります。基準が二つあって、都合のいいときに都合のいい基準を使い分けるという方法です。

二枚舌と似たような意味です(ちょっと違いますが)。

歴史学会では最近は大和朝廷とは呼ばなくなりました。

「天皇と呼ぶ存在と天皇を支える官僚組織がいないなら朝廷じゃない。だから大和朝廷ではなくヤマト政権と呼ぶべき」というわけです。

実をいうと学者達は天皇家の権威をできるだけ認めたくないという事情もあります。聖徳太子をいないことにしたり、崇神天皇より前の天皇をいないことにしたりするのはそのためです。

「天皇」とは呼んでなかったから「朝廷」じゃない。というルールが成立するなら。
「将軍」のいない組織は「幕府」ではありません。武家の組織があったとしてもです。

「ヤマト政権」という言葉があるのなら、1185年から始まったものは「鎌倉政権」と呼ぶべきでしょう。

つまり。

「1185年が鎌倉幕府の始まり」はウソなのです。

新発見でもなんでもありません。

「前言撤回」「実はこうでした」というならどんな新発見でも作れます。

 

日本の教科書なのになぜか外国の立場で書いてある不自然さ

日本の歴史教科書は誰が学ぶものでしょうか?
日本の子どもたちですよね。

ところが外国人向けに書かれている部分もあります。

豊臣秀吉は朝鮮侵略をした?

昭和世代なら「朝鮮出兵」と習った人もいると思います。最近は「文禄・慶長の役」と呼びます。客観的に事実を扱うという立場から元号で呼んでいるのです。

意味がわかりにくいですが客観的に考えるという点ではそれもいいでしょう。

「元寇」は江戸時代になって作られた言葉だから鎌倉時代の呼び方である「蒙古襲来」にすべきという意見もあります。

そのルールに従うなら「文禄・慶長の役」も「唐入り」とすべきでしょう。秀吉は「唐入り」とよんでいたのですから。でも学者は「唐入り」とは言いません。

ここでも二枚舌をつかってるわけです。

 

現代人の価値観で過去の人の行いを決めてはいけない

確かに豊臣秀吉は朝鮮に軍隊を送って朝鮮や明と戦いました。目的は明の領土を手に入れるためです。戦国時代を海外に拡張したものです。いい悪いの問題ではなく、そういう時代なのです。

外国に領土を広げるのが「悪」なら世界史で習う大航海時代も「大侵略時代」です。ヨーロッパの植民地支配のほうがもっと過酷です。

ただしもともと侵略という言葉がもっていた定義自体は悪い意味ではないという意見もあります。でも悪い意味を込めて使ってることが多いようです。

なので普通、戦争を歴史で教える場合は「侵略」という言葉は使いません。戦争である以上、どちらから攻めてどちらかが守るのは当たり前だからです。

戦争がいい悪いの問題ではありません。歴史の授業は思想教育の場ではないのですから事実を客観的に学ぶべきなのです。

戦争を侵略だといえば戦国時代は侵略だらけになってしまいます。元寇(蒙古襲来)も「元と高麗の日本侵略」と教えるべきです。

かつては日本の中国大陸進出を中国への侵略と書いてある教科書もありました。今でもあるかもしれませんが、最近は減ってきているようです。

でも朝鮮出兵だけは未だに侵略と書いています。なぜ朝鮮を特別扱いするのでしょうか?

これは韓国政府や韓国の学者が「日本が侵略した」と主張しているからです。

客観性よりも感情が優先するのが韓国です。韓国人の感情はそのとおりでしょう。だから書きたいのであれば韓国の教科書に書けばいいのです(本当は客観的に書いてほしいですが、思想教育のために歴史教育しているので無理でしょう)。

「あなたの歴史は古い~」には「(朝鮮侵略の表記は)日韓双方の見解が一致」と書いてます。

日本の歴史研究者は国内ではもっともらしいことを言いますが、韓国(北も?)・中国の圧力には弱いのです。

でも日本の教科書が外国の言いなりになってるのはおかしいですよね。

 

なぜ歴史は新説が次々と生まれるのか?

なぜ歴史の新常識が次々と生まれるのでしょうか?
大きな発見があったら歴史の常識が変わるのはわかります。でも大した資料が発見されていなくても、歴史の常識がかわることはあります。

新発見は作ることができる

研究者だったら実績・功績は欲しいものです。

科学の分野では新発見はとても難しいです。何年、何十年も研究して成果を出しても、世界の学会で認められて初めて定説になります。本当かどうかを調べる方法があるからうそを書いたらばれます。STAP細胞がバレたのも嘘を見破る方法があるからです。

でも歴史の世界は嘘を言っても誰にもわかりません。過去の世界は誰も見ることが出来ないからです。たしかに考古学の世界では発掘品の捏造はありました。発掘品や資料の捏造なら見破ることは出来ます。でも過去の出来事は誰もわかりません。

歴史は残された資料から再現することになります。

資料があったとしても、それが全てではありません。残ってない資料だってあったでしょう。資料の解釈の仕方も人によって違います。信じたくない資料は「信用しない」といってしまえばそれですみます。

現代の歴史研究の世界では一次資料とよばれる資料を大切にします。一次資料とは、できるだけ当時かそれに近い時代に書かれた資料です。手紙、命令書、日記などが多いです。とはいっても一次資料は断片的なものです。ジグソーパズルのピースのようなものです。

一次資料が正しいという根拠もありません。思い違いや噂を書いてるだけかもしれません。

つまり一次資料だけで当時の出来事を知ることは不可能なのです。

ということは。

都合のいい資料を組み合わせて適当な解釈をつければ、研究者に都合のいいストーリーを作ることが出来る。

ということです。

また、中国の歴史書は後世に作られるのが常識です。「唐」の歴史書は唐より後の王朝が作ったものです。他の中国王朝も後の王朝が歴史書を書いてます。朝鮮の三国時代(高句麗・新羅・百済)から統一新羅末期まで書かれた朝鮮の歴史書「三国史記」も高麗時代につくられたものです。

いずれも「一次資料」ではありません。日本書紀が信用出来ないなら中国の歴史書も信用できないことになります。

それでも日本書紀は信用できないが中国の歴史書は信用できる。というのなら「日本人は嘘つきだが中国人は信用できる」と言ってるのと同じなのです。

実際には中国や朝鮮の歴史も誇張やウソが多いので、正しいのかどうかわからない部分もあります。

どの資料を信用するかは学問ではなく好き嫌いの問題なのです。

 

歴史学者の思惑で歴史が作られる

研修者は成果がほしいから次々に新説を作って発表します。

解釈を変えれば成果はいくらでも作れます

歴史研究に警察の犯罪捜査のような慎重さ厳密さはありません。

つまりどんな説でも「作って発表」してしまえるのです。

定説になるかどうかは学会で支持する人が多いかどうかで決まります。

歴史の新説は「現在の学会でそのような思想を持っている人が多い」というだけなんですね。正しいかどうかは別です。

だから学会の流行や歴史学者の思惑で歴史の新常識は変わってしまうのです。

 

歴史を作るのは権威を持った人

歴史学者は「歴史の記録は勝者や権力者が都合のいいように作ったもの」といいます。

現代では歴史を作る権限は歴史学者・学会にあります。

つまり「歴史の新常識は歴史学者が都合のいいように作ったもの」かもしれません。

じつのところ歴史の学説というのは研究者の思想(イデオロギー)がかなり影響します。

歴史研究は科学ではなく思想(イデオロギー)の世界です。

可能性として、マルクス主義(共産主義)にかぶれた研究者が大勢いれば、日本の歴史教科書が共産主義国に都合のいいようになってしまうこともありえます。

すべてがそうとはいいませんが。研究者の都合で作られた説もあるかもしれませんね。

 

 

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