高校野球甲子園大会と校歌の不思議な関係

高校野球の季節ですね。サッカーに人気を奪われつつあるとはいえ、高校野球は今でも社会の大きな関心ごとだと思います。少なくとも高校サッカーの大会が甲子園大会ほど盛り上がったとは聞いたことはありません。

ところで野球中継をみて以前と違うなと思うことは校歌の扱いです。

ここ数年、試合の途中で校歌を歌うようになりました。

なんで試合中なのに校歌を流してるんでしょうね?不思議です。

考えてみると校歌も甲子園大会を象徴する要素のひとつですよね。

勝者の特典だった校歌

かつては試合に勝った学校しか校歌を歌えませんでした。僕が学生時代はそうでした。でもいつのころからか試合の途中に校歌を流すようになりました。

どうして試合の途中に校歌を流すんでしょうか?

もともと試合後に勝った学校の校歌が甲子園に流れるのが当たり前でした。

だから「試合に勝って校歌を流したい」と頑張る学校は多かったようです。

つまり「甲子園で校歌を歌う」=「試合に勝つ」ことです。

ところが「甲子園に来たのに校歌を歌えないのはかわいそう」という意見が出るようになりました。

でも、試合なんですから勝者と敗者があるのは当たり前です。

勝ち負けをなくしたらただのお遊びです。観客も勝ち負けのないお遊びを見たいと思うでしょうか?お遊びなら甲子園大会なんか作らずにそのへんの球場ですればいい。勝者と敗者がいるからドラマが生まれるのです。

さすがに勝者と敗者をなくすことは出来ません。そのかわり。

「校歌を歌う機会を平等に与えよう」ということになったようです。

でも試合後に校歌を歌うのは勝ったから歌うのですよね。なにも校歌を披露したいから甲子園に来てるわけではないでしょう。甲子園大会は歌の発表の場ではないのですから。

本来の目的を忘れてるような気がします。

負けた学校の校歌を流す?

そういえば昔読んだ新聞に面白いことを書いてました。でもいつだったかは思い出せません。少なくとも10年以上昔です。もっと前だと思います。

朝日新聞の社説だったと思います。新聞には編集者が好き勝手なことを書く欄がありますよね。そこに書いてました。

僕が勤務していた会社では主要四紙を購読してたのでたまたま朝日新聞を読んだのです。

そこに書いてあったのは

「試合に負けた学校の校歌を流せ」

というものです。

そうなると優勝校は一度も負けることがないので校歌を歌う場面がなくなります。そこで決勝戦では勝者と敗者の両方の校歌を流すという意見でした。

どうやら敗者の健闘を称えるという意味があるらしいです。負けたのが可愛そうという同情の意味もあるみたいです。

これを読んだときは

「新聞もジョークを書くのか?」

と思いました。

いくらなんでも本気で書いてるとは思えません。

なんで負けた方の校歌を流す必要があるのか?理解に苦しみます。

スポーツでは敗者に敬意を示すことも必要です。でもそれと校歌を流すことは別です。なんでも平等にすればいいというのは大間違いです。真剣勝負をしている人達に対する冒涜です。

それに試合で負けて泣き崩れている人を見るととても歌える心理状態ではないと思います。試合に負けて精神的にも動揺しているのに数万人の前で歌わせるのは拷問ではないでしょうか。

もしあの記事を本気で書いてるとしたら頭がオカシイです。

でもその後。これもいつから始まったのか忘れましたがいつの間にか試合中に両校の校歌を歌うようになりました。

新聞社の圧力があったのでしょうか?

夏の大会は猛暑の中で行われます。試合時間を長引かさせるだけなのに時間の無駄だと思います。

校歌を歌うのは自由

それに勝たなくても校歌は自由に歌えるんです。

僕は学生時代に吹奏楽部でした。だから野球の応援に行きました。

僕の学校ではラッキーセブンの7回には校歌を応援歌にするという伝統がありました。だから勝っても負けても校歌は演奏してたのです。選手の人達は試合の真っ最中ですから校歌を歌う余裕はありませんが。応援団は歌ってました。

僕の学校は地方大会で負けてたので甲子園大会には出てません。地方大会も高野連のルールに従わないといけないので甲子園大会も同じだと思います。

だから校歌を歌いたい学校があるなら応援のときに演奏したり歌えばいいんですよ。

大人の犠牲になる高校生たち

大人たちは負けた学校を見て「可愛そう」「校歌を歌わせてあげたい」と思うのでしょう。

でもそれは大人たちの勝手な感情の押し付けです。

大人の自己満足のために高校生を犠牲にしないでほしいと思います。