”本当は謎がない「古代史」”という胡散臭いような面白そうなタイトルの本を書店でみつけました。手にとってパラパラっと見てみるとなかなかユニークなことを書いてます。そこで買って読んでみました。
この本は日本の古代史について著者なりの考えを書いたものです。よくある「俺の考えた歴史」の本です。
でも最近の流行とはちょっと違う視点から歴史をとらえています。
著者の八幡和郎氏は歴史学者ではありません。歴史作家でもないようです。現在は大学で教授をしながら作家活動もしてるようです。もともとは通産省の国家公務員だったみたいです。そのせいか歴史にたいする考え方も歴史学者や歴史が専門の作家とは一味違うんですね。
確かに八幡氏の説も信じられない部分はあります。だからこの本が正しいというつもりはありません。
でも歴史に対する考え方には「なるほど」と思わせる部分があります。現代の歴史業界に対する問題点を指摘した本だと思います。
僕自身も歴史は専門ではありません。理工系の人間です。化学の研究者をやってました。そのせいか専門外の人間からみて「ここがおかしいんじゃないの?」と感じた点ではこの本の著者と一致する部分もあるのかもしれません。
ここでは著書の主張している説を紹介するのではなく、著者の歴史に対する考え方を紹介します。むしろこの本で大切なのは個々の説よりもそちらだと思うからです。
イデオロギーと商業主義が古代史を歪める
八幡氏が主張する歴史をめぐる問題とは何でしょうか?そのいくつかを紹介します。
商業主義で歪められる歴史
また出版の世界では、小説家、研究者、そしてアマチュア歴史家が真っ白いキャンパスに好き放題の「歴史物語」を描き、面白ければそれだけで買う「歴史ファン」があまたいる。
八幡氏は出版の世界と言ってますがテレビの世界も同じですね。
でもなんだか耳が痛いですね。僕自信も面白い歴史物語があったら読んでしまう方なんですよ。
もちろんすべて信じてるわけではありません。「バカなことを考える人もいるんだな」くらいの感覚です。特撮映画を作り物だと知った上で面白おかしく楽しんでるのと同じです。
でも歴史の新説とやらを信じてる人もいるんでしょうね。
有名作家の書いた歴史小説や大河ドラマもぼぼ作り話。歴史的な内容とは違う部分が多いです。でもそれを歴史の事実だと信じてる人も多いみたいです。それと似てるかもしれませんね。
歴史は町おこしの道具
また歴史は町おこしの道具になります。
それ自体は悪いことではないんですが。観光の目玉にしたい地方自治体が好き勝手な歴史を作って宣伝してるんですね。岡山県の桃太郎伝説はその成功例です。
この本では三内丸山遺跡など縄文遺跡がろくな研究もされずに大発見にされて怪しげな建造物が「復元」されていることを問題にあげています。
例えばこれ。柱を建てたと思われる穴しか見つかってないのによく作ったと思います。
北海道及び東北地方の縄文遺跡はせっかく世界遺産に登録しようとしてるみたいですからケチは付けたくないですが。僕がユネスコの審査員なら建築物を復元した根拠を出せって言いますね。捏造は世界遺産には認められない「ハズ」ですから。(ユネスコもあまりあてになりませんが・・・)
イデオロギーで歪められる歴史
また八幡氏はこのようにも書いてます。
イデオロギーや宗教による歪曲もひどい。「日本書紀」や「古事記」の神話部分はともかく、歴史部分はよく読めばまっとうな正史なのに、保守派は新和風に脚色し、戦後史観の人たちは信用出来ないと切り捨てる。
実のところ「歴史の解釈」は研究者の価値観や考え方でかなり違います。同じ出来事や人を研究しても「180度評価が違う」「黒を白と言う」なんてことは珍しくありません。
問題なのは「学者の価値観・考え方が変わってるだけ」なのに、それを「新発見」「新常識」として広めてしまうことなんですね。
研究者は手柄をたてたいですし、自分の権威・功績がかかってますから常に自分が正しいと主張します。いくらでも新説ができてしまうんです。
しかも最近の歴史研究の世界では流行があるようです。
記紀に書かれていることは、政治的な歪曲があるから歴史として扱うべきではないというのなら、世界中あちこちの史書も似たりよったりなのだから同様に接するべきところなのだが、どういうわけか中国や韓国・朝鮮の史書については全面的に信用するというのだから不思議だ。
日本人が作った「日本書紀」や「古事記」は信用しない。でも外国人が作った歴史書は信用する。それが日本の最近の歴史学会の流行みたいです。
確かに歴史書は当時の人々の都合のいいように書かれた部分はあるでしょう。でもだからといって全てが作り話というのも極端な考え方です。
過去の説を否定するならそれなりの根拠が必要です。少なくとも科学の世界では「新説が正しいことを証明しなければいけません」。
でも歴史の世界では新説を主張しても納得のいく説明をできる学者ってあまりいないんですね。信じたくないから適当なことを言ってるように思えることは多いです。理屈を言えばそれが科学だと勘違いしてる人もいます。それでも新説として認められてしまう。権威と人気があれば認められるような雰囲気です。
確かにどの分野でも学会って権威主義的で多数派が強い世界です。それにしても歴史学会は不思議な世界です。
古代中国の歴史書は外国の記事についてはいいかげんです。国外のことなんだから関心がないのは当たり前。古代中国や朝鮮からみると日本は劣った野蛮な国という思い込みがあるので、どうしても先入観で書いてしまう部分はあったでしょう。それはお互い様です。
外国の記録には勘違いや通訳の間違いもあったかもしれません。国外の記事については正確さが落ちるのは仕方ありません。だから中国や朝鮮の歴史書を信用しすぎるのも問題なんですね。
でも著者のいうように、なぜか日本の資料は信用しないのに中国・朝鮮の資料は信用する学者は多いです。
もしかして史観
「もしかして史観」は八幡氏の命名。可能性があるかもしれないというだけで、いかにも本当にあったかのような説をいうことです。
例えば「天武天皇が百済の王子だった」とかなど。ドラマのネタ程度の内容でも新説になってしまうところが歴史の面白いところです。
陰謀史観
「陰謀史観」は実際にある考え方です。似たようなものに「陰謀論」ものあります。
ろくに証拠もないのに動機だけから新説をつくることです。
古代史ではないですが「坂本龍馬を殺した黒幕は西郷隆盛だった」「本能寺の変の黒幕は豊臣秀吉だった」など。
「◯◯が黒幕だった」というのは代表的な陰謀史観です。
動機があるというだけで犯人にされたら冤罪だらけです。でも歴史の世界では平気で冤罪を作り出します。むしろ冤罪を作った人が称賛される世界です。
本来「陰謀史観」「陰謀論」は、ろくな根拠もないのに勝手に歴史を操作してはいけないという批判的な意味でよばれます。でもなぜか「陰謀論を主張する(知ってる)とかっこいい」と思ってる人がいるみたいです。
個人的には「大人な汚い」といって反発して、ちょっと理屈っぽいことを言って得意になってる反抗期の中学生(中二病)みたいな雰囲気がします。
プロジェクトX史観
これも八幡氏の命名。
NHKの人気番組「プロジェクトX」からの命名。この番組では社会的な偉業が誰か一人の、しかも組織の中堅クラスの人間の功績という筋書きで語られることが多かったです。
実際には組織のトップが命令して多くの人が動いてできた功績なんですが。中堅クラスの人が頑張って作ったことにすれば意外性があって面白いのでそのように描かれるのです。
僕も技術者なので好きな番組でした。確かに「やりすぎだろ」と思う部分はありした。結果的に捏造がバレて打ち切りにましたね。
同じことが歴史研究の世界でもあります。歴史上の偉業もトップじゃないだれが一人が行った事になってるというやつです。
薩長同盟や大政奉還を坂本龍馬が発案してほぼ一人でやったみたいにいうのはそうですね。
古代史では藤原不比等が平城京の設計、律令制の完成、日本書紀の内容を決めたスーパーマンといわれるものそうですね。
でも面白いのでウケます。新説は本当かどうかよりも「面白い」か「意外性がある」かの方が大事なんです。
つまらない内容かもしれないが
「本当は謎がない古代史」は、アマゾンのレビューでは低い評価です。
それもそのはずです。
歴史にロマンを求める人からも。
歴史はイデオロギーの道具と考える人からも歓迎されない内容だからです。
八幡氏の主張する説はいかにも官僚的で現実的な内容です。新鮮味はないし、面白みもありません。
皮肉なことに歴史が好きで歴史関係の出版物を読む人にとって面白くない内容になってます。正直、どのような読者を想定して書いた本なのかよくわかりません。
おそらく僕のように「なるほど、そういう考えもあるかもね」と思う人のほうが少ないと思うのです。
ある意味歴史学者や歴史ファンにとっては都合の悪い真実なのかもしれません。もちろんこの本に書いてあることが正しいというつもりはありません。でも歴史業界の問題提起としては的を得ているのではないかと思います。
でも歴史に面白みや意外性は必要ありません。
まして歴史はお金儲けや、研究者の権威のため、都合のいい思想を広めるための道具でもありません。
でも今の日本の歴史をとりまく環境は様々な人の利害や思惑でおかしなことになってる。というのがこの本の趣旨のようです。
出版時期によって表紙が違うこともあるようです。
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