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聖徳太子・厩戸王どっちが本当?教科書の内容が変わる理由

文部省は2月に発表した歴史教科書の学習指導要領の内容をもとに戻すことになりました。

2月に発表した内容はこのような内容でした。

小学校では「聖徳太子」 → 聖徳太子(厩戸王)に変更。
中学校では「聖徳太子」 → は厩戸王(聖徳太子)に変更。
「鎖国」  → 「幕府の対外政策」に変更。

というものです。

ところがその後国民から意見を集めたところ否定的な意見が殺到。結局「聖徳太子」「鎖国」という表現は残すことになりました。

なんで文部省は「聖徳太子」や「鎖国」の表現をなくそうとしたのでしょうか?

じつは一般人には知られていない歴史業界の事情があったのです。

目次

「聖徳太子」「鎖国」をなくそうとした理由

「聖徳太子」と呼ばない理由

実をいうと、たいした根拠はありません。

いちおう文部省の説明によると。

・生前は聖徳太子とは呼ばれていない。
・聖徳太子は死後100年後につけられた呼び方だったから。

となってます。

でもそれなら卑弥呼はどうなるのでしょうか?彼女の生前に日本人が「卑弥呼」と呼んでいた証拠が残っているのでしょうか?そんなものはありません。

卑弥呼の死後、50年近く後になって外国人が伝聞で書いた記事しか手がかりがありません。

だいたい、女王の名前(または称号)なのに「卑(いや)しい」という字を使うのはおかしいですよね。

当時の日本のどこかに「ひみこ」と呼ばれる人がいたのかも知れませんが。「卑弥呼」という漢字の組み合わせはでっちあげなのです。中国はよくこういう失礼な名前の付け方をします。

それなのに「卑弥呼」はありがたがって教科書に載せる。でも「聖徳太子」は載せない。おかしなものです。

「開国」と呼ばない理由

江戸時代、長崎の出島や琉球を通して海外との貿易は行っていました。日本全体が海外との交流をやめたわけではない。だから鎖国という呼び方はしない。でも開国は残す。ということです。

でもそれっておかしいですよね。出島での貿易なんかはずっと前から教科書に載っていたし、琉球や対馬を通しての貿易もちょっと歴史をかじった人なら知ってるほど当たり前のできごと。そういうことがあるのは前提で。自由な民間貿易ができない。国民は出国できないし、外国人も一部の限られた人だけが限られた場所にしか出入りできない。そういう状態を鎖国と呼んでいたわけです。

そういう前提条件を無視して、全く貿易をしなかったのではないから鎖国ではない。というのは筋が通りません。

つまり、それまでの定義をぶち壊して勝手に定義を作って新常識とやらをでっちあげているだけなんです。

ちゃぶ台がえしです。どこかの国が得意にしているムービングゴールポスト(動くゴール)です。

国民と専門家の意識は違う?

当然、国民から意見を集めたところ「わかりにくい」「小中学校で表現が違うのはわかりにくい」「1000年以上続いた呼び方を変えてほしくない」「開国があるのに鎖国がないのはおかしい」という苦情が殺到しました。文部省の案は不評でした。

そこで文部省は従来通り「聖徳太子」「鎖国」の表現を使うことにしました。ただし現在でも聖徳太子(厩戸皇子)と書いてる教科書は多いです。

なぜ1000年以上続いた「聖徳太子」という呼び方を捨てて、いまさら「厩戸王」としなければいけなかったのでしょうか。

聖徳太子の名前とは?

聖徳太子の呼び方はいろいろ

聖徳太子の生前の名前は厩戸王子といわれています。日本書紀に書いてるからです。一部の教科書でも聖徳太子(厩戸皇子)と書いてますね。

日本書紀では”厩戸王子”の他にも”東宮聖徳”、”豊耳聡聖徳”と書かれています。いろいろ呼び方はあったみたいです。

古事記では”上宮厩戸豊聡耳太子(かみつみやのうまやどのとよとみみのみこ)”と伝わっています。

聖徳太子という言葉がはっきりと出てくるのは奈良時代・天平勝宝3年(751年)の「懐風藻」だといわれます。死後100年もたって作られた称号だからダメだというのです。

確かに生前は「聖徳太子」とは呼ばれていませんでした。でも奈良時代から現代まで1300年続いた呼び方です。

没後に作った称号を使ってはいけないという理由はない

でもなぜ没後に作った称号を使ってはいけないのでしょうか?

例えば聖徳太子と同時代に生きた「推古天皇」も生前に「推古天皇」と呼ばれていたわけでも、死の直後に「推古天皇」の諡号が贈られたわけでもありません。

「推古天皇」とよばれるようになったのは628年に推古天皇が亡くなって130年以上たってからでう。日本書紀では「豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)」になってます。

「○○天皇」といった漢字2文字の呼び方は「漢風諡号」といいます。漢風諡号は奈良時代の天平宝宇6~8年(762~764年)ごろ淡江三船たちによって神武~元正天皇までが決められました。奈良時代の一部の天皇についてはこれ以前から唐風(漢風)の呼び方はありましたが。古代にも遡って一括して決定したのはこのころです。

奈良時代は唐風が流行っていたので飛鳥以前の人にも唐風の称号を付けようしたのでしょう。聖徳太子の称号もその流れで生まれたものでしょう。

時期的には聖徳太子の呼び名が広まったのは推古天皇の漢風諡号が決まったころとたいして変わりません。

「聖徳太子」が不適切なら「推古天皇」も不適切。教科書に書くなら「豊御食炊屋姫天皇(推古天皇)」と書かなければいけません。

もっと古い神武、崇神はもちろん。雄略、仁徳、天智、天武、持統といった教科書でおなじみの天皇についても、その呼び名は使ってはいけない。ということになります。

つまり称号の付いた時期だけを理由にするなら「聖徳太子」だけがダメとはいえないのです。

「聖徳太子」という称号を使わない理由は、その呼び方ができた時期が新しいからではありません。

本当の理由は「聖徳太子」には信仰も混ざった神格化されたイメージがついているからです。

でも例え生前の業績以上に神格化が進んでいたとしても、当時の人々がそのように求めた・信じたのですから仕方ありません。それが歴史です。

現代の学者の好き嫌いで決めてはいけません。

応神天皇だって神格化が進んでいます。というか神になっています。

崇徳上皇(天皇)も怨霊をなだめて御霊にするために作られた称号です。思いっきり信仰や宗教的理由が入ってます。生前や死後しばらくは讃岐院と呼ばれていました。

歴史上、生前の行いよりも神格化・伝説化が進んでいる人はいくらでもいます。「聖徳太子」だけがダメは理由はありません。

史実と違う部分は教育で「後世のイメージと生前の行いは違うのだよ。」と教えればいいだけであって。呼び方を消してしまう必要はありません。

結局のところ、聖徳太子と言わないのは純粋に学問的な理由ではなく。イデオロギー・感情論的な理由で偉大すぎる皇族のイメージをなくしたいだけなのです。

厩戸皇子になった理由

では、なぜ日本書紀などで厩戸皇子と書かれているのかは現在でもはっきりとしたことは分かっていません。

一般的に当時の王族(皇族)は母親の出身地や出身豪族の名前、生まれた場所など。本人にゆかりある名前で呼ばれることがありました。厩戸皇子の場合も、”厩戸”かそれに近い響きの地名にゆかりがあったのかもしれません。

でも後世の人は”うまやと”がどこかわからなくなったので馬小屋で産まれたことにした。という説もあります。

キリスト教とは関係ない

馬小屋で生まれたという逸話からイエスを騒動する人もいますが。キリスト教は日本書紀が書かれた時代には日本には入ってきていません。だから何の関係もありません。

唐には景教(ネストリウス派キリスト教)が入ってきていたではないか。という人もいるかも知れません。でも景教が日本に来たという痕跡はありません。

景教が唐の朝廷で大流行しているならともかく。布教の許可は出ましたレベルの宗教が、日本書紀ができたころの日本に伝わっても「異国の教え」「蕃神(ばんしん=異国の神)」あつかいです。いきなり偉人とされている人の逸話に盛り込むなんてことはしないでしょう。

キリスト教=凄いという現代人の刷り込みを古代の人に当てはめるのは適切ではありません。

馬小屋伝説は「偉大な人は変わった生まれ方をする」という昔話のパターンの一つ。たまたま「うま」つながりでそういう発想になったのでしょう。

「聖徳太子」廃止までのいきさつ

今頃になって表現の仕方が変わったのは歴史業界(学者・研究者・出版社・マスコミ)の考え方が変化したからです。難しい話になるので退屈なら読み飛ばしてくださいね。

実証主義の広がり

明治から現在まで歴史研究の世界で大きな影響をもっているのが「実証主義」という考え方です。

実証主義とは客観的な事実にもとずいて記録するもの。「思想的、宗教的な影響は受けてはならない」という考え方です。日本では明治以降に広まりました。

歴史業界では一次資料(一等資料ともいいます)をもとに歴史を語るのが本当の歴史だと考えられています。一次資料がなければどんなに有名な歴史書であっても批判的に考えます。つまり信用しないのです。

一次資料の定義ははっきりしていません。いちおう「当時の人・出来事と同じ時代に作られた記録・文献である」といわれています。どこからどこまでが一次資料なのかは人によって違います。同時代の人でもまた聞きてもいいのか。本人が書いたものと証明できなければいけないのかについては研究者によって扱いは変わります。

とはいえ、できるだけ正確に過去のことを知るためには実証主義自体は必要なことでした。

ところが別な問題が出てきました。

不完全な客観性

実証主義が広がったことで研究者は「一次資料さえあれば歴史は語れる」と考えました。

でも、当時の資料は部分的にしか見つかりません。手紙一通がまるまる発見されたものでも、どのような経緯があって、どのような意図で書かれたのかまでは書いてません。一次資料だけで歴史を再現するのは不可能なのです。

結局、資料が書かれた背景や資料と資料の間に何があったのかを再現するのは現代人の想像力です。だから歴史業界の実証主義は自然科学の世界ほど客観的ではありません。

個人の主観でしかありません。

日本書紀解釈の革命・津田説

戦前は実証主義を日本書紀や古事記(記紀)にあてはめることはできませんでした。皇室の正当性を揺るがす行為と考えられたからです。しかしそれを記紀で行なったのが津田左右吉という歴史学者です。

昭和14年。津田が「十七条憲法は後世の創作物」と言い出して聖徳太子の存在を否定的に発表しました。当時は日本書記は事実だと考えられていたので津田の説は批判されました。彼の書いた本は出版停止になりました。

第2次世界大戦後は自由な言論が認められるようになります。戦前とはちがう自由な発想の学説が認められます。記紀を批判的に考えるのが戦後の歴史業界の流行りとなりました。

皇国史観の排除

幕末・明治あたりから戦前・戦中まで天皇中心の国つくりをしようという動きがありました。その考えを「皇国史観」とよびます。

日本は第二次世界大戦で負けて価値観が変わりました。戦後は皇国史観は歪められた歴史だと考えられるようになりました。戦前の考え方は否定しようという動きが広まります。

戦後の教育を受けた研究者が増えると歴史業界には「皇室を中心にして日本の歴史を考えるのはよくない」という空気がますます広まりました。

イデオロギー的な理由

共産主義のもとになった考え方にマルクス主義があります。もともとマルクス主義は資本主義の問題点を指摘する考え方でした。やがて「経済は労働者のおかげで成り立っている。だから資本家はいらない」という解釈になりました。共産主義運動の根拠になりました。

マルクス主義は戦前からありました。コミンテルン(ソ連が作った共産主義を広げる国際的な組織)指導のもと、コミンテルン日本支部が設立され共産主義運動が始まりました。日本共産党の前進になった組織です。戦前は共産主義活動は弾圧されました。

コミンテルンは日本の共産主義化に失敗すると君主制だけでも廃止するよう支持したといいます。つまり天皇の廃止です。

しかし天皇は制度として存在しているわけではありません。日本をまとめる中心的な存在です。だから戦争に勝ったアメリカも残しました。そのほうが日本を統治するのに都合良かったからです。

現実問題として革命でもおこさないかぎり天皇の存在をなくすことは出来ません。そこで間接的に天皇の地位や権威を落とすことで、存在価値のないものにしてしまおうというのがマルクス主義者の考えのようです。

日本でマルクス主義が広まったのは戦後になってからです。マルクス主義と歴史がどう関係するのか不思議ですよね。簡単にいうと「歴史は民衆のおかげで成り立っている、権力者から見た歴史は正しくない」という考えです。

「過去の歴史書は当時の権力者が都合のいいように作ったものだ。信用できない」というわけです。信用できない基準はなにかというと、個人の主観になります。

現在ではコミンテルンは解体され指示は意味のないものになっています。でも、その思想は形を変えて現代でも生きています。

意外なようですがマルクス主義は現代の学会では主流になってます。過去の権威を否定して新しく作った説を正しいことにする。過去の権威の否定にはマルクス主義はとても便利なんです。新しい説を作ればそれは学者の成果になり、地位や名誉、収入も増える。現代の学者が食べていくためにもマルクス主義は都合がいいのです。

学者はもともと政治家などの外の権威には批判的です。マルクス主義とはかなり相性がいいのです。ところが学会内の権威には弱いです。偉い先生が言い出すと支持する人が増えます。

GHQの指導

第二次世界大戦後。日本を占領したアメリカ軍を中心としたGHQ(連合国総司令部)は、日本人の持つ「天皇を中心とした世界観」が国民を団結させる原因になったと考えました。

なにしろ国力がアメリカの10分の1以下で技術力も低レベル。お金も資源もない黄色いサルの国だと思っていた日本がアメリカ、イギリス、オーストラリア、中華民国相手に戦争して、大国を苦しめたのです。アメリカは日本国民が一致団結した時の怖さを思い知ったのでした。そこでGHQは日本国民を団結させない。政府のいうことを聞かない国民、自分の国に誇りを持てない国民にしようと考えました。

そのひとつが天皇中心の考え方を教育するのをやめさせ、教科書から歴代天皇の名前を消すことでした。皇室の権威を落として、日本人の団結のシンボルを貶めることにしたのです。

そこでGHQは戦前の津田説を利用して天皇の正当性を弱めました。何しろ日本人自身が言ってることですから、他の日本人にも受け入れやすかったのです。

ところが津田は皇室を否定するつもりはありませんでした。「他に裏付ける証拠ががないから日本書紀をそのまま信じることはできない」と言いたかっただけでした。津田自身は皇室を現代にふさわしい姿で残すべきと考えていたのです。でもあとのまつりでした。

津田史観は皇室の正当性を否定的に考える道具に使われてしまったのでした。

皇国史観は偏った歴史感ですが、軍国主義とは別のものです。でも皇国史観=軍国主義のレッテルが貼られ、悪い考え方と思われるようになりました。歴史の世界ではマルクス主義的な人・リベラルな人ほどGHQ(アメリカ)の方針に忠実なんです。妙な話です。

現代の天皇ですら権威を落としたのです。過去の皇族は更に否定的な扱いをうけることになりました。

中国・韓国史観の流行

現代の歴史業界で広まっているのが中国や韓国の歴史観をもとに日本史を解釈する中国・韓国史観です。

文字数が多くなったのでこまかい解説は省きますが。例をあげると過去の日本を倭(やまと)ではなく、倭(わ)国とよんだり。古代日本にやってきた人たちを「渡来人」と呼ぶのは中国・韓国史観のひとつです。「鎖国」のことを「海禁」と呼ぶ人がいたら、その人は中国・韓国史観の持ち主です。なぜなら「海禁」は中国・朝鮮王朝で鎖国政策を意味する言葉だからです。

さて、聖徳太子です。

聖徳太子の業績のひとつに遣隋使の派遣があります。現在では「友好のため」「進んだ文化を取り入れるため」と解釈されることもある遣隋使の派遣ですが、それだけが目的ではありません。

随との交渉・取引のため使節を派遣したのです。

なぜそうしたかというと当時の朝鮮半島情勢が関係しています。

当時の朝鮮半島では伽耶諸国(任那)が新羅の領土になっていました。かつて日本は任那に対する支配権を持っていました。ところが新羅に占領されてしまったのです。すると任那から貢物が来なくなくなりました。占領国の新羅に使節を送っても拒否されます。そこで新羅の主人の隋に働きかけて日本が任那の支配を認めさせようとしたのでした。(新羅は隋に朝貢してました)

この交渉は効果があったのか、新羅の使節が任那の使節と称する人たちを連れて日本にやってきて税(貢物)を収めました。でも当時の朝廷は調子に乗って「もっと出せ」と要求したのでそれ以後は来なくなりました。

もちろん様々な制度や技術、仏教などを導入したい。そのための取引がしたいのもあります。高句麗・百済・新羅は文化や技術の通り道です。それなら直接中華王朝と取引したほうが最新のものがもっと多く手に入るのでは?と考えるのは当然です。

あと。高句麗や百済が警戒しているという隋がどういう国なのか知っておきたいというのもあったでしょう。

そのための第一歩が随への使節の派遣です。朝鮮半島の諸国が行っている朝貢とは違います。

朝貢ではありませんから独立国同士の対等な関係での交渉を求めています。

ですから「日出づる処の天子・・・」という書状を送ったのでした。

でも自分が世界で一番偉いと思っている隋の皇帝は激怒しました。これをもって聖徳太子の外交は失敗したという人もいますが、それは日本が朝貢しようとした(=属国になろうとした)と考えるからです。

対等な外交交渉を目指しているのですから媚びたり卑屈になる必要はありません。現代の政治家・有識者にはない度胸ですよね。

「対等」とは、張り合ったり粋がることではありません。相手を大国・格上と認めつつも、お互いに交渉や取引の相手として主権国としての付き合いを望むことです。

だから日本は百済や高句麗が行っていた「○○王」への冊封を要求していません。外国が用意した称号なんていらないからです。

それでも聖徳太子は書簡の中で隋の煬帝を「菩薩天子」として最大級の褒め言葉で称えました。日本からみれば隋は間違いなく文化や技術の進んだ大国ですし。聖徳太子も隋の皇帝を尊敬しているからです。

相手を格上だと認めた上で礼儀は尽くす。でも家来ではないし、命令される覚えもない。聖徳太子は当たり前のことをしようとした。ただそれだけ。

でも中華思想では中国以外の国が中国と対等な関係を求めるのは認められません。人として当たり前のことを要求すれはそれが「無礼」になり「野蛮人だから礼儀を知らない」と言われる理不尽な相手。それが中国です。

中華思想は現代でも生きています。

中国に媚びを売りたい人にとっては聖徳太子は無礼なヤツ、迷惑な存在でしかありません。ですから聖徳太子はいない、いたとしても厩戸王というたいした実績のない王族に過ぎなかった、といいたいのでしょう。

それと。皇室そのものを無くしたいマルクス主義者・共産主義者にとっては皇族の偉人はいてもらっては迷惑でしかありませんから。いなかったことにしたいのです(こちらの理由の方が大きいでしょうね)。

マルクス主義者は歴史を都合のいいストーリーに置き換えるファンタジー的な歴史観をもっていますから。実際にどうだったかは関係なのです。

商業主義と歴史

当時の人が書いた記録があっても解釈は現代人が自由にできます。解釈を変えただけならいくらでも新発見は作れるのですね。鎌倉幕府の成立年が変わったのもそのような事情によるものです。

歴史の解釈には日本人の好きな判官びいきも影響します。「実は権力争いに勝ったのは悪・敗れた方が善だった」という考えです。そのほうが大衆受けします。

「大衆受けする説はお金になる」と考える人も出てきます。面白い説を発表すれば売れる、視聴率が取れる。というわけで歴史は商売になりました。本屋に行けば嘘か本当かわからない説を書いた本が並んでます。テレビで見かける「歴史の新事実」もそういうものです。

権力争いには勝者と敗者がいます。歴史の記録は勝者の立場で書かれたものかもしれません。だからといって敗者がいい人・善人だったとは限りません。

確かに蘇我氏は自分が大王になろうとしたのではないかも知れません。でも大王の継承や政治を自分たちに都合のいいようにしようとしていたのは確か。後の藤原氏や平氏と同じです。不満を持つ人がいてもおかしくはありません。身内も含めて総スカンを食らって朝廷内の権力争いに負けた。ただそれだけです。蘇我氏を美化する必要はありません。

やたらと敗者を持ち上げるのも逆に歴史を歪めているのです。

もちろん新資料や発掘で見つかった新発見もあります。表現や思想は自由です。さまざなま説を知るのはいいことです。でも、曖昧な説を”これが真実”と言い切るのは問題ですよね。

いまこのタイミングで聖徳太子が問題になる理由

皇国史観は「日本書紀」「古事記」を過大評価しました。逆に「実証主義」「マルクス史観」「中国・韓国史観」では「記紀」を否定します。どちらにしても極端な考え方をするのが日本人の特徴です。

戦前・戦中教育の研究者が減り。戦後教育を受けた研究者が多数派になりました。戦後は戦前の思想を否定しようという反動が起きました。すると聖徳太子を否定的に考える人たちの主張が大きくなり。文部省を動かせるほどに大きくなったのが”今”なのです。

つまり。今ごろになって教科書の変更があるのは歴史業界の都合。歴史業界で戦前の思想を否定的に考える人が多数派になった界内部の勢力争いの結果です。

最新研究の結果ではなかったんですね。

でも大昔の人がどう呼んでいたかなんて現代の一般人には どうでもいい ですよね。本当に当時の人が厩戸王と呼んでいたのかすらも分からないのですから。

歴史は常に作られている

歴史を作る権威は朝廷、幕府、政府から学者に変わりました。過去の権力者が作った歴史書や過去の人達の解釈が間違っているなら、現代の研究者が正しいという保証はどこにあるのでしょうか?

科学の世界では仮説が正しいかどうかは証明する必要があります。

でも歴史の世界では仮説の証明は必要ありません。いくら一次資料を組み合わせたところで、ストーリーは現代人が自由に作れるのです。言ったもの勝ちです。

学者は権力者が歴史を歪めているといいます。でも学者も自分の思想や都合にあわせて歴史を変えています。

歴史とは”過去の事実の積み重ね”ではなかったんですね。”後世の人が考えてること”。だから解釈で変わるんですね。そこが歴史の面白いところです。

歴史の解釈は常に変化しています。

教科書の内容もテレビや本に出ている歴史の新常識も正しいわけではないんです。

教科書は

時の流れの中でたまたま今流行している考え方。

歴史業界の権威ある人が「こうだったらいいな」と妄想した結果できあがったファンタジーです。

歴史とはただそれだけのもの。

「事実」ではないんですね。

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