時代とともに変わる桃太郎・吉備津彦・温羅伝承

 

BS11で放送された「尾上松也の謎解き歴史ミステリー」を見てびっくりしたことがあります。

テーマは「桃太郎伝説 おとぎ話に秘められた謎」

「桃太郎」は歴史ではなくおとぎ話です。それを歴史番組でとりあげるとは!

「言いたいことはわかるけど。町おこしの宣伝でしょ」と突っ込みたくなります。

しかも言い伝えとは違うことを言ってる。

岡山の桃太郎伝説は、温羅伝承が根拠になってます。観光用に広まってる温羅のお話をうらじゃ振興会 の内容をもとに要約するとこのようになります。

現在広まってる岡山の温羅(うら)伝承

 温羅とは朝鮮の百済で起きた戦争を逃れて日本にやってきた渡来人の長。
古くから朝鮮半島と交流のあった吉備の人達は温羅たちを快く受け入れた。
温羅はそんな吉備の人に感謝して製鉄、造船、製塩技術を教えた。
高い知識と技術を持つ温羅は地元の人々から尊敬され吉備の王になった。
ところが、温羅のおかげで豊かになった吉備の製鉄技術を狙ったのがヤマト王権。
吉備とヤマト王権との間で争いが起こり、温羅は戦いに負けた。
ヤマト王権は戦いを正当化するために温羅を鬼にした。

ここでは温羅が徹底して「いい人」。
ヤマト王権が侵略者になってます。

「ヤマト王権」という言葉はここ数十年の間に歴史学者が作った言葉です。細かい説明は省略しますが大和朝廷と同じ意味です。

町おこしのために作ったお話は地元に都合のいいように作られています。その地域を売り出すためのものだから当然です。

ちなみに岡山市には「うらじゃ踊り」があります。うらじゃ踊りは温羅に感謝する踊りという設定のようです。高知の「よさこい踊り」にヒントを得て全国でYOSAKOIが作られました。その岡山版です。

それで町が活性化するのならこれはこれでいいと思います。うらじゃ嫌い、うらじゃキモいという意見も聞きますが、地元の方が頑張っているのですから他府県の者がとやかく言う資格はありません。

でも「尾上松也の謎解き歴史ミステリー」で紹介された温羅伝説も観光用に広められた内容と同じなのです。歴史番組で紹介するならもっと詳しく調べないといけないですよね。

観光用のお話を歴史的事実と勘違いする人もいるかも知れません。

吉備津神社の鳴釜神事

温羅は吉備津神社に伝わる鳴釜神事の起源を伝える話に登場します。おそらく温羅が出てくる話で一番古いと思います。

吉備津神社に伝わる話を要約するとこうなります。
既に他の記事でも載せましたが現代の温羅伝承と比較のためにもう一度載せます。

11代垂仁天皇の時代。
異国の鬼神が吉備国にやってきた。
彼は百済の王子、温羅。吉備冠者ともいわれた。
浦は備中国の新山に居城を作り、西国から都に送る船や婦女子を略奪した。
人々は恐れおののいて「鬼の城」と呼び、都に行って温羅の悪行を訴えた。
朝廷は将軍を派遣。
しかし温羅は変幻自在の技を使うため討伐は失敗。

朝廷は武勇のすぐれた「イサセリヒコノミコト」を派遣。
イサセリヒコノミコトは温羅と戦った。ミコトは苦戦するものの、ミコトの放った矢が温羅に命中。
温羅は雉に姿を変え山中に隠れたが、ミコトは鷹に変身して追いかけた。
温羅は鯉に姿を変え血吸川に逃げたが、ミコトは鵜に変身して捕まえた。
温羅は降伏して温羅冠者の名をミコトに与えた。
そこでミコトは大吉備津彦とよばれるようになった。

ミコトは温羅の首をはねて串に挿して晒した。
しかし温羅の首は大声を出して止まらない。
ミコトは部下の犬飼武に命じて犬に食べさせた。
温羅の首は骨になったがそれでも吠え止まらない。
ミコトは釜殿を地中に埋めた。
それでも声は止まらない。
ミコトの夢に温羅の霊が出て「わが妻、阿曽郷の祝の娘・阿曽姫に釜を炊かせよ」と告げた。
以上が鳴釜神事の由緒である。

吉備津彦と温羅の扱いが変わった理由

鳴釜神事の由来に登場する吉備津彦の物語と、現在の温羅伝承では大きく変わった部分があります。

鳴釜神事の由来に登場する温羅は拉致や略奪をする悪い鬼でした。
でも現代の温羅伝承では、温羅はいい人です。

逆に吉備津彦とヤマト王権は吉備の住民の訴えを聞いて温羅と戦いました。
でも最近の説では侵略者になってます。

温羅と吉備津彦の扱いが正反対になってしまったのです。

他にも作為的な部分があります。

鳴釜神事の吉備津彦は正義の側として描かれていますが、それでも残酷な面はあります。古代社会はきれいごとではすみません。昔話とはそういうものです。

現代の温羅伝承にはそれがありません。温羅も吉備の人も非の打ち所がない善人ばかりなのです。現代人の作った童話のようです。あまりにも、いい人なので作為的にすら感じます。

なぜ吉備津彦と温羅のイメージが180度変わってしまったのでしょうか?

英雄譚が好まれない世相

平和な現代では英雄伝説がなじまない。という事情はあると思います。

退治物語はどうしても武力を使わなければいけません。平和な世の中では「力」は「暴力」に見えてしまうのです。「力」を使うのが悪い人で、「力」を使われるのがいい人。という発想が産まれます。

特に現代日本人は平和に対して盲目的な信仰に近いものをもっています。武力=悪が刷り込まれていますから、武力を使う吉備津彦は悪の存在になってしまうのでしょう。しかし力を否定する寛容で平和的な民族は侵略や洗脳を受けやすいという歴史的事実があります。

権力者は悪というイデオロギー

戦後、日本で広まったマルクス主義の影響もありそうです。そんな思想は知らないと思うかもしれません。もともとは資本家は悪で労働者が善という思想。共産主義の思想ですが、現代の日本では意外と広まってます。平等公平の教育や市民運動のもとになってるのです。政治家は悪者、市民・庶民は常に正しい。どこかで聞いた主張ではありませんか?

権力者は都合の悪いものを鬼に仕立て上げて搾取や侵略を行なった。と語られます。「尾上松也の謎解き歴史ミステリー」もその理屈でした。

確かに権力者にはそういう一面はあります。だからといって被害者が常に善良かというとそうとも限りません。温羅がいい人だったという記録はどこにもないのです。

外国への忖度

現代の温羅伝承で特徴的なのが、吉備の人々と百済の温羅は非常に友好的なことです。鳴釜神事の由来とは正反対です。

なぜ21世紀の現代になって百済と吉備の友好関係をアピールするのでしょうか?

桃太郎伝説をPRしている岡山市は中国の洛陽市と韓国の富川市との姉妹都市になってます。議員レベルでも交流があるようです。

中国の洛陽市と姉妹都市になったのは1982年。
韓国の富川市と姉妹都市になったのは2002年。

岡山市は桃太郎の像を洛陽市に寄進したり中国語で桃太郎物語を紹介したり。国際交流にも積極的に桃太郎を活用しています。岡山市民の税金で桃太郎像を作って中国に寄付しているのを岡山市民は歓迎しているのでしょう。中国人観光客が増えるかもしれないですから。韓国にも桃太郎像を送るのでしょうか?お返しに?に慰安婦像が送られてきたりして。

ともかく、鳴釜神事の由来をそのまま中国や韓国に紹介すると反発をうける可能性があります。

なにしろ温羅は百済の王子。日本に来て略奪や拉致を行います。温羅の横暴を吉備の住民が朝廷に訴えます。その結果、派遣された皇族の王子に温羅が殺されます。吉備津彦だけでなく、朝廷に訴えた吉備の人達も温羅の敵です。

中国はともかく韓国が激怒するのは間違いありません。

そこで温羅を善人にして、吉備津彦を侵略者にしたのでしょう。

「私達(吉備=岡山)は百済とは仲良くしてたんですよ。それをヤマト王権(皇室を中心にした日本の権力者)が壊したんです」

と言えば韓国や中国の共感を得るかもしれません。うらじゃ踊りも大陸風の衣装を来て温羅に感謝する踊りです(設定では)。韓国人や中国人観光客が喜んでくれるでしょう。

そうなると国内でうらじゃ嫌い、うらじゃキモいという意見が増えるかもしれませんが。当事者ではないのでなんとも言えません。それはともかく。町おこしと地元に伝わる伝承なら町おこしのほうが大事というのは仕方ないのかもしれません。

ところが鳴釜神事の伝承自体が昔と今では変わってる可能性があるのです。

平安時代より前に温羅はいなかった

平安時代には吉備津神社は武神と精霊を祀る神社だと知られていました。武神は吉備津彦。しかし温羅という名は出てきません。「丑寅みさき」というおそろしいものが祀られていると信じられていました。

「みさき」とは「隅」の意味という解釈もあります。丑寅の隅。つまり東北の鬼門に恐ろしいものが祀られているという意味でしょう。

現在でも岡山県には御崎神社など「みさき」と名のつく神社があります。漢字や御祭神は変わってますが、もともとは「みさき」なる霊を祀っていたと思われます。

温羅の名が登場するのは平安時代よりも後。

古来より「丑寅みさき」とよばれる精霊がいたのは確かなのでしょう。鎌倉期以降に温羅という名前がついたようです。

つまり吉備津彦は温羅とは戦っていないし、百済の人とも戦っていない。別の何かと戦っていたということです。

吉備津彦と戦った相手については別の記事で紹介します。

百済と吉備の関係

鬼ノ城は鬼の城ではない

阿曽郷(岡山県総社市)にある鬼ノ城。温羅の居城がこの鬼ノ城とされます。

現実の鬼ノ城は天智天皇の時代に作られた古代の山城です。

660年。斉明天皇の時代。百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされます。
663年。天智天皇の時代。日本は百済再建のため軍を派遣。白村江の戦いです。しかし日本・百済連合軍は唐・新羅連合軍に負けました。

大和朝廷は唐・新羅連合軍との戦いにそなえるため海の近くにいくつかの城を作りました。鬼ノ城もそのひとつ。

そのとき高い建築技術を持つ亡命百済人が建設を指導しました。そのため朝鮮式山城ともいいます。

 しかし唐や新羅が日本に攻めてくることはありませんでした。山城は使いみちがなくなりました。

放置された城には山賊が住み着くこともあります。人々から鬼の住む城と恐れられても不思議ではありません。

百済の王子・敬福

奈良時代に百済王敬福という人がいました。
697年~766年。天武天皇から称徳天皇の時代に生きた人です。

敬福の祖先は百済王善光。善光は百済最後の国王・義慈王の息子です。百済滅亡前に日本に来てそのまま日本で暮らしました。

当時の日本と百済は同盟国。百済の王子が日本に来て暮らすことはよくありました。百済滅亡後、善光の子孫は百済王の姓を名乗り貴族となって大和朝廷に仕えています。

百済王一族は河内を中心に畿内に多いですが瀬戸内海沿岸の地域にも広がっています。

百済王敬福は善光の曾孫です。敬福は南海道節度使に任命されたことがあります。吉備を含めた中四国地方の軍事権を担当する要職です。

つまり百済の王子が日本に来て、吉備にも関わりがあったのです。

 しかし百済滅亡後。日本に敵対している新羅が朝鮮半島を統一しました。平安時代以降、新羅人が海賊になって九州沿岸を襲ったり、元寇ではモンゴルと高麗の連合軍が対馬や九州北部に来て大きな戦いになりました。

日本に百済の王子がいたという事実。朝鮮式山城の存在。朝鮮半島に対するイメージの悪化。そんな事情が重なって鬼ノ城を根城にする百済の王子という伝説ができたのかもしれません。

これらの原因があるとすれば温羅の伝説ができたのは鎌倉時代以降ということになります。

まとめると。
百済と日本は同盟国。
大和朝廷は百済系渡来人を優遇。
百済滅亡後、朝鮮半島との関係が悪化。

こういった事情を考えると「吉備の王として、ヤマト王権と戦った百済渡来人の長」という温羅伝承は無理があるのです。

 

時代に翻弄される桃太郎・吉備津彦・温羅たち

吉備津彦、温羅、桃太郎それぞれの話は、それぞれの時代の人の思惑で作られました。

当時はその話が作られる必要性があったということです。それをさらに現代人が勝手な解釈をして利用してきました。物語を作る方も、利用する方もそれぞれが自分たちの都合を主張しているのです。

でも情報は発信し続けたものが勝ちです。正しいかどうかは問題ではありません。悲しいことですが事実です。

岡山市は戦前から桃太郎発祥の地として宣伝を行っていました。地元自治体を中心に熱心なPR活動をしていました。おそらく戦前は鬼退治の桃太郎のイメージそのままに宣伝していたと思います。戦後は180度イメージが変わってます。

歴史的の解釈はその時代に生きる人の考え方の表現に過ぎません。過去の人が捏造したのではなく、現代人が改ざんしている可能性だってあります。いつの時代も情報を流す人達は自分たちが正しいと主張します。

桃太郎はそんな人間の考えの移り変わりを一身に受け止めている鏡のような存在なのかもしれません。

 

 

今回、参考にした本。

桃太郎と太閤さん